今回はおもしろい本があつたので紹介します。池宮章一郎著 『島津奔る』上下二巻です。
子供の受験に付き添ったときに暇つぶしに読んだ本ですが、かねがね思っていた疑問が解けました。それは関が原の戦いで西方に組した島津はなぜ潰されなかったのか?です。
時は、豊臣秀吉が天下統一を果たし晩年に無謀ともいえる朝鮮出兵を行った1590年代に遡る。薩摩からはこの物語の主人公島津義弘が出兵している。まず朝鮮出兵の目的を著者は官僚石田
三成による『戦後不況』からの脱却と述べている。120年続いた内戦が終結し武士・軍事産業から農業に至る失業対策だったというのだ。驚きの国家経済的な見解である。
さて秀吉没後、20万の明・朝鮮軍が押し寄せる中を約7万の将兵が朝鮮から撤兵せねばならくなった。まず薩摩島津7千に襲いかかったがなんと義弘はこれを壊滅せしめた。これが島津生き残りの第一の理由、即ち薩摩島津に手を出すなとの威名を轟かせたことである。
またこの朝鮮出兵では加藤清正など豊臣恩顧の大名からも石田三成にかなりの不満が出ており「戦国大名」対「豊臣官僚群」の確執は「関が原の戦い」にも影響するのである。
著書はその後、徳川家康・前田利家・石田三成など大河ドラマでおなじみの諸大名の大阪での政治的駆け引きを中心に物語は進行している。その中で薩摩は諜報組織をつくり情報収集に努め、石田
三成と親交のあった家老伊集院忠棟を抹殺し領内の火種を消している。
島津義弘は家康と会談した際、戦中経済から泰平経済への移行を進言している。諸大名に城の夫役・課役を命ずる(今で言う公共工事である)、道路網を整備し江戸への参勤で市場に金を流させるなど。これが生き残った第二の理由である。政策の裏秘密を知っていたことである。
家康は上杉討伐の軍を起こしたが島津は手勢300名しかおらず大阪残留なったが、家康不在で石田三成が挙兵した。これで薩摩は西方に付かざるを得なくなってしまった。
ところがである、この報を聞いた国許薩摩では主命を無視して大阪へ走るものが続出した。その数1000余名、鹿児島から大阪まで1200Kmを走ってである。『島津家中、上方へ罷り通る』沿道で水や食料を提供してくれる人々の援助を得て「島津奔る」は成った。
さて岐阜付近での小競り合いを経て戦いの場はいよいよ関が原に移っていく。ご承知の通り当初は西軍が押していたが毛利・吉川の不戦や小早川の裏切りにより東軍が勝利した。不思議なのは家康が島津勢の600mほどに近くまで進出したにもかかわらず義弘は動かなかった事である。成り行きで西方に参戦した義弘は戦後経済の復興は家康に託すしかないと考えていた。
義弘は負け方を考えていた。このまま逃げては戦後処理で潰されるだけだと。戦いが終わり東軍将兵がほっとしつつ眺めていた薩摩島津の軍勢600名が突然動き出しのだ。しかも退却ではなく敵中突破である。家康の眼前100m程を通過したとある。敵に次々と討ち取られながら伊勢・甲賀、堺、西宮まで辛苦の逃避行を成し無事船で薩摩へ帰還した。帰還したのは80名ほどであったといわれる。毎年おこなわれている「妙円寺参り」はこの時の苦労を偲ぶ行事となっている。薩摩島津が生き残った第三の理由は「薩摩恐るべし」と家康に思わせたことである。
さて敗戦処理はどうなったかというと、領地削減と思いきや逆に琉球の薩摩属国の承認であった。密貿易で蓄えた財力で後年徳川幕府を倒すとは家康も思いもしなかっただろう。
「島津奔る」 著者:池宮章一郎 出版社:新潮社 上下2巻 約700ページです。
by 小林晃 |