あなたを失って心に穴があく。穴はどうやって埋めるのか。

あなたを失って
心に穴があく。

あなたを失って心に穴があく。穴はどうやって埋めるのか。

生きていれば誰もが死を迎えます。
「死」は人生の一部であり、自然なことです。

大切な人が死ぬことは
ほとんどの方が経験はありませんし、
想像することもないでしょう。

想像したとしても
「この先、自分が死ぬまで大切な人と会うことができない」ことをリアルに身を持って感じることはできないでしょう。

大切な人を失った悲しみは乗り越えられるものでしょうか?

ある人は、乗り越えたと思っても、心の奥底に沈めて、見てみぬふりをしているのかもしれません。

ある人は、その心の痛みも大切な人を愛した証として、自分の一部として受け入れて、上を向いて歩いていらっしゃるのかもしれません。



失った悲しみを受け入れて、元氣に楽しく歩いていくためには
「周りと悲しみを共有する」
「故人について語り合う」ことが大切だと思います。

自分の「悲しみ」や「辛い」という悲嘆の感情を表に出すことができないと、ウツやアルコール依存になったり、最悪の場合、自ら命を絶ってしまうなど、更に辛いことを引き寄せてしまうことがあるそうです。

これを防ぎ、悲しみを乗り越え、心の痛みや環境変化などを受け入れられるように「グリーフ(悲嘆・苦悩)・ケア」があります。

私は、このグリーフ・ケアの一端を「看取り」や「葬儀」・「法事」が担っていると思います。

人の数だけ抱えているモノ・感情が違いますので、一般的な話になりますこと、ご了承くださいませ。

看取り

「看取り」は病人のそばで世話をし、死期まで見守ることです。

世話をしながら、大切な人が亡くなる過程を見ることで、死を受け入れていくそうです。

しかし、現在は8割の方が病院で亡くなっています。また、独居老人が増え、一人で過ごすには危ないということから施設住まいがほとんどです。

更に、ここ数年はコロナ対策で病院や施設での面会もできないまま、やっと会えた時にはすでに亡くなってしまったというケースも少なくありません。

言葉も交わすことができない
好きな食べ物を食べさせてあげたり
やさしく、なでることもできない・・・。

何もできないまま
冷たくなった遺体と対面することになります。
どこか他人事に思えるような出来事が、身近に起こっています。

葬儀

かつての葬儀は多くの方々が絶え間なく訪れ、
ご遺族と共に故人について語りあいました。
共に涙しました。

葬儀に訪れる方から、自分の知らない故人の一面を耳にして、誇らしく思ったり、思わず笑顔になるようなエピソードに心救われた方もたくさんいらっしゃると思います。

親しい方とふれ合い、同じ悲しみを共有し、故人の「死」を受け入れていくためにも、通夜式・葬儀式・告別式という時間の流れが必要だと思います。

また、ご参加をお願いしている納棺の儀も、大切な人へのねぎらいや感謝の気持ちを込めて身体を拭いたり、着替えて化粧をする過程で亡くなったことを受け入れる大切な時間になります。

法事

仏教であれば忌日法要(逝去後7日ごとに49日まで行われる法要と逝去後100日目の法要)、新盆、年忌法要(3・7・13・17・23・27・33・37・50回忌)があります。

僧侶の話を聞き、故人との思い出を話しながら食事を楽しむ。「どこもやっていることだから、仕方なく・・・。」「準備が面倒・・・」といった思いもあるでしょう。

しかし、法事は回を重ねるごとに、ご家族の心が癒されていくように思えます。

大切な人を失った悲しみは1日、2日で消えるものではありません。不測の事態で亡くしてしまったのなら尚更です。

法事で集まることでお互いに故人の死を再認識し、回を重ね、時間をかけながら、自分の気持ちを整理し、死を受け入れる過程は、日本独自のグリーフ・ケアとして海外でも注目されたことがあるそうです

また、葬儀や法事を「みんなのおかげで無事に行うことができた」と感謝の気持ちを抱けたなら、家族同士はもちろん親族や地域との絆を強くすることができるのではないでしょうか。

あなたの心に耳を傾ける存在がそばにいてくれますように。。。

看取りもできず。
死に目にも会えない。
あの時、交わした言葉が最期なんて・・・と後悔して、
大切な人の死を実感できないまま、自分の悲しみにキツくフタをして。

「とにかく葬儀を終えなければ」という使命感にかられ、
故人を知る人と、ろくに言葉を交わすこともなく、心を交わすこともなく終えてしまう葬儀。

葬儀を終えると、再び忙しい日常に還っていきます。

「私は生きていかなくちゃいけないんだから、今まで通り、毎日をこなさなきゃ」という使命感と、 「みんなに心配をかけたくない」優しさ、「気持ちをさらけだすことができない。情けない自分を見せたくない」というプライドから、誰にも語ることができません。

そうして一人でいるときに出てくる想いは後悔ばかりで、
「あの時こうしておけば良かった・・・」
「どうして優しい言葉をかけられなかったんだろう・・・」と、心は自分を責め立て続けます。

周りの方も亡くなったことを教えてもらえなければ、話すキッカケも作ることができません。同じ悲しみを経験したからこそ、その辛さが分かる人も一緒に悲しむこともできません。

葬儀は地域ではなく個人のモノという社会の意識が変化してしまったことで、
「葬儀に人を呼ぶことは迷惑になる・・・。」
「あの人の葬儀にも呼ばれなかったから、自分が呼ぶのは迷惑・・・。」と
葬儀で他者と故人との思い出を語り合ったり、悲しみを共有できなく無くなったことで、グリーフ・ケアの機会も失われていると感じています。

人は人に自分の経験や想いを語ることで心の整理をすることができます。

かつてあったグリーフ・ケアの機会をほとんど持てないまま、大切な方との離別をどのように乗り越えているのでしょうか。

私は、大切な人との死別に苦しむ様々な感情を理解し、その感情に寄り添う気持ちが必要だと考えます。

葬儀を通してではありますが、家族が協力し合うことで更に絆を強めることで死を乗り越え、故人を亡くした後の生活に少しでも早く馴染むよう手助けが出来る存在でありたいです。

私は葬儀がキッカケでお友達ができました。葬儀の前も後も、いっぱい話をしました。お友達に、故人さまの話をたくさん聴かせていただきました。いっぱい、笑って、泣いて、そのあと出てくるもろもろの相談まで受けるくらいにお互いに信頼関係を築いています。

葬儀社らしくないなぁ・・・と思われるかもしれませんが、30年以上、葬儀に携わってきた身としては仕事として割り切れず、これも性分と受け止めて。

わたしは「西山さん」という一個人として、これからも結んだ ご縁を大切にしていきます。