和菓子の歴史は、その発展過程から大きく4つの時代に分類できます。
まず一番目が奈良〜平安時代の和菓子、次が室町〜安土桃山時代の和菓子、三番目が江戸時代の和菓子、そして4番目に明治〜昭和時代の和菓子です。
この4つの時代区分で和菓子の歴史について概要を見る事にします。
それまで菓子と言えば果物を指していた日本に、まったく新しい形の食べ物
が中国から伝わったのが奈良〜平安時代です。それは後に唐菓子と呼ばれるようになります。
唐菓子は、米粉、小麦、大豆、ごま、甘味料を素材として作られていたようです。唐菓子は、神社や寺院に供える食べ物として用いられており一般には浸透しませんでしたが、材料を加工して調理を施した唐菓子の伝来は、その後の日本における菓子の方向を決定づける画期的な出来事でした。
この唐菓子の作り方を参考にして生み出されたのが日本で最初の和菓子である椿餅(つばきもち)です。この椿餅は、餅米の糒(ほしいい)と甘葛(あまづら)をこねて固め、椿の葉で挟んだものと伝えられています。
唐菓子に続いて、日本の菓子に大きな影響を与えたのが、鎌倉時代に中国から伝わった禅宗の点心です。点心とは、禅宗の寺院で朝と夜の食事の間に取る軽食のことですが、この点心が影響して新しいお菓子(ようかん)が生まれます。
そして、室町時代に入りお茶を飲む風習が広まるにつれて、茶道文化がお菓子に大きな影響を与えます。お茶文化の隆盛が、それまでの製菓技術を急速に進歩させ、趣向を凝らした和菓子や由緒ある銘菓が生まれます。
現在でも、茶道と密接な関係を持つ和菓子の基礎は、この時代に築かれたと言っても過言ではありまでん。安土桃山時代になると日本の和菓子は、ポルトガル・スペインから来た宣教師によってもたらされた南蛮菓子(カステラ・金平糖他)の影響を強く受けるようになります。それは、大量の砂糖と卵の使用です。お菓子は甘い物と言う現代のイメージは、この時代に形作られたと言っても良いでしょう。
江戸時代の初期から中期にかけての和菓子づくりの中心は京都でした。
京都で茶席の菓子として進化を遂げてきた和菓子は、より色鮮やかで風流な菓子へと発展していきます。短歌や俳句などの文学に結び付けられて、多くの独創的なお菓子が作られたのもこの時期です。江戸時代も中期以降になると、それまでの茶道との関連で発展してきた京菓子に対して、庶民文化の高まりに伴って、菓子作りも庶民的なものに姿を変えていきます。
現在の和菓子の製造技術は、この時代に形づくられたと言っても良いでしょう。
この時代に生まれた菓子名である{まんじゅう}、{せんべい}、{ぼたもち}、{岩おこし}などは、今も使われています。この時期に奨励されたサトウキビ栽培により、貴重だった砂糖の流通量も増加し、製菓法も改善されて菓子づくりの技術はますます広がりを見せていきます。
明治時代に入ると、鎖国令が解かれた事もあり、西洋菓子が輸入されるよう
になります。この影響は菓子業界にも及び、洋菓子を作る業者も出始めます。
この時代に作られた洋菓子には、ビスケット、ドロップス、チョコレート、キャラメルといったものがあります。しかし、市場での浸透度は菓子消費量の1割にも満たない状況であり、明治時代の菓子の中心は、相も変わらず和菓子だったのです。
明治の後期から大正時代にかけて、洋菓子の消費割合は少しずつ増加していきますが、和菓子中心の様相に変わりはありませんでした。昭和時代に入ると、洋菓子づくりの進展とともに、和菓子業界も刺激を受け、活気に満ちた時代を迎えます。ただし、日中戦争の勃発から太平洋戦争へと突入していく中で、和菓子店の休業・廃業が相次ぎます。しかし、終戦後30年代になると、統制経済が撤廃されたことにより、各種原材料の統制が撤廃されると、和菓子の製造も次第に活気を取り戻してきます。
40年代に入ると菓子製造の機械化とともに、消費者の洋食化傾向にともなって洋菓子の需要が高まるなか、和菓子業者も洋菓子の要素を取り入れて和菓子に工夫を施すようになります。今や、クリームやバター、果物を使用した和菓子は当たり前になっています。現代は、イチゴ大福、パイ饅頭、抹茶ババロアなどに見られるように和菓子と洋菓子の境界がなくなりつつある時代と言っても良いでしょう。