〜前期 1835年(天保6年)から
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倹約令 | 居食住、風俗、趣味、娯楽などの多くの面で厳しく統制。 |
出版統制 | 人情本等風俗を乱す出版物を禁止。為永春水等を処罰。 |
株仲間の解散 | 価格破壊による物価引下げを意図して諸業界の独占体制の打破を企画。 |
棄損令 | 旗本、御家人の借入金の帳消し。 |
人返しの法 | 都市にはいった農民を帰農させる法令。 |
軍制改革 | 西洋砲術の採用。 |
上知令 | 江戸、大阪周辺地の幕府直轄化。 |
外国船打払令の緩和 | 外国船に対して燃料、水、食料の給与を許可する。 |
以上のような幕政改革を実施しますが、政策があまりにも性急すぎたために、同僚を初め激しい反対にあって失敗に終わります。その結果、幕府は急速に弱体化します(有力大名の政策関与の道を開くことになる)。
1853年(嘉永6年)、アメリカのペリーが蒸気船を含む4隻の黒船で浦賀に来航し、幕府に対して開国を迫ります。来航の翌年に開国するかどうかの返事をすることを約束して彼らをいったん返します。開幕以来の国是である鎖国政策を転換しなければならない危機に直面した幕府は、これまでの慣例を破り朝廷に報告してお伺いを立てる事になります。また、有力大名の意見を聞く事にしました。朝廷や有力大名は、国是である鎖国政策の継続に強気で、特に当時の孝明天皇は極端な異国人嫌いであった事もあり、開国反対の意思が表明されました。にもかかわらず、幕府は翌年7隻の軍艦を率いて横浜にやってきたペリー艦隊の威圧に屈して日米和親条約を締結し(その後、日露、日英、日蘭とも和親時要約を締結する)、下田と函館の2港を開く事に同意しました。この結果、1639年以来215年間続いた鎖国政策に終わりを告げたのです。
社会生活大塩平八郎の乱(1837年)
伊勢参宮覚(1845年)
安政の大地震(1855年)
薩摩藩(鹿児島)藩財政改革(1827年〜1848年)
お由羅騒動(1836年〜1851年)
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