天璋院が生きた時代

〜前期 1835年(天保6年)から
1856年(安政3年)の主な出来事〜


政治経済

蛮社の獄(1839年)

幕府は国是である鎖国政策に従って、異国船打払令を出していましたが、日本の漂流民7人を乗せてこれを日本に引き渡そうとして浦賀に来航したアメリカ船モリソン号を異国船と言う事で異国船打払令に従って砲撃します(モリソン号事件)。この事件を知った蘭学者の高野長英や渡辺崋山等が幕府政策を批判したため幕府から厳しい措置を受ける事になります(鎖国政策の矛盾の表面化)。

天保の改革(1841年〜1843年)

第11代将軍徳川家斉の疲弊した政策により、幕藩体制は危機的状況に陥っていました。そこで幕府を立て直そうと、老中水野忠邦は、江戸三大改革の一つである天保の改革を実施します。水野忠邦が実施した改革の内容は以下のようものでした。

倹約令 居食住、風俗、趣味、娯楽などの多くの面で厳しく統制。
出版統制 人情本等風俗を乱す出版物を禁止。為永春水等を処罰。
株仲間の解散 価格破壊による物価引下げを意図して諸業界の独占体制の打破を企画。
棄損令 旗本、御家人の借入金の帳消し。
人返しの法 都市にはいった農民を帰農させる法令。
軍制改革 西洋砲術の採用。
上知令 江戸、大阪周辺地の幕府直轄化。
外国船打払令の緩和 外国船に対して燃料、水、食料の給与を許可する。

以上のような幕政改革を実施しますが、政策があまりにも性急すぎたために、同僚を初め激しい反対にあって失敗に終わります。その結果、幕府は急速に弱体化します(有力大名の政策関与の道を開くことになる)。 

日米和親条約の締結(1854年)

1853年(嘉永6年)、アメリカのペリーが蒸気船を含む4隻の黒船で浦賀に来航し、幕府に対して開国を迫ります。来航の翌年に開国するかどうかの返事をすることを約束して彼らをいったん返します。開幕以来の国是である鎖国政策を転換しなければならない危機に直面した幕府は、これまでの慣例を破り朝廷に報告してお伺いを立てる事になります。また、有力大名の意見を聞く事にしました。朝廷や有力大名は、国是である鎖国政策の継続に強気で、特に当時の孝明天皇は極端な異国人嫌いであった事もあり、開国反対の意思が表明されました。にもかかわらず、幕府は翌年7隻の軍艦を率いて横浜にやってきたペリー艦隊の威圧に屈して日米和親条約を締結し(その後、日露、日英、日蘭とも和親時要約を締結する)、下田と函館の2港を開く事に同意しました。この結果、1639年以来215年間続いた鎖国政策に終わりを告げたのです。

社会生活

大塩平八郎の乱(1837年)

1836年(天保7年)に、天保の大飢饉が起って、極端な米不足となり、餓死者があいつぎます。百姓一揆や打壊しも多数発生します。翌1837年に、このような状況下にも係わらず、米を大阪から江戸に送ろうとした幕府の大阪町奉行に業を煮やした大塩平八郎は、幕府の役人であったにも係わらず、民衆の立場に立ち反乱を起します。これが、大塩平八郎の乱です。事前の密告などもあって、反乱は直ぐに鎮圧されましたが、元幕府の役人が起こした反乱とあって幕府は震撼しました。

伊勢参宮覚(1845年)

江戸末期の庶民の旅行事情を示す資料が、{伊勢参宮覚}です。これは、江戸郊外の武蔵国荏原郡喜多見の田中家に伝わる農民の旅行記録です。それによると、1845年(弘化2年)1月に、当時24歳の国三郎が、村人33人から餞別をもらって伊勢参りに出かけます。餞別が、現代の金額に換算して20万円以上とかなりの高額なので、村の代表に選ばれて参詣したものと思われます。この旅行記録によると、当時の宿場、旅館、土産物屋、観光地の様子等を知ることができ、庶民(女性)も安心して旅行を出来る時代になっていた事が伺われます。

安政の大地震(1855年)

1855年(安政2年)に発生した安政の大地震は、マグニチュード7前後の直下型地震だったといいます。即死者約4千人、負傷者約3千人、倒壊家屋1万4千戸以上。地震が発生した直後から各所で火の手があがり、火災による被害も少なくなかったと言われています。この地震は、江戸における最大の災害であり、外国にも大きな衝撃を与えた事件でした。直ちに{御住まい小屋}の設定が指定され、市街の補修工事も始まりましたが、弱体化した幕府に往年のリーダーシップはなく、被災者の支援事業は、もっぱら民衆主導で推進されました。

薩摩藩(鹿児島)

藩財政改革(1827年〜1848年)

第25代薩摩藩主島津重豪の開化政策や交際費等の急増で薩摩藩の借金総額は当時の貨幣で500万両にものぼっていて、藩の財政はまったなしの状況にまで追い込まれていました。このような危機的状況下で薩摩藩の天保の改革に手腕を発揮したのが、家老の調所広郷です。彼は、約500万両の借財を250年賦返済、つまり事実上の借入金の帳消しを決めます。更に、奄美諸島の特産物である黒砂糖の専売や琉球との密貿易で財政再建を進め1844年(弘化元年)には、悲願であった50万両の備蓄金の達成にまでこぎつけます。しかし、調所広郷は、幕府から琉球との密貿易の責を問われて、自害しました(1848年)。

お由羅騒動(1836年〜1851年)

第27代薩摩藩主島津斉興の世子である島津斉彬は、祖父、島津重豪の影響を受けて蘭学や海外の情勢に通じ、幕府老中阿部正弘らの開明派大名達から国政への参加を嘱望されていた人材でした。一方、当時の薩摩藩の財政改革を手がけていた家老の調所広郷一派は、島津斉彬が藩主に就任すると蘭癖と国事の活動に藩の金を注ぎ込むに違いないと恐れていました。せっかく立て直した藩の財政を維持する事情から、次の藩主には斉彬ではなく、斉興の側室由羅の子である久光を藩主にという企てが動き始めることになります。これが俗に言う{お由羅騒動}と言われる事件です。斉彬派が1848年(嘉永元年)に、お由羅と久光を暗殺しようと企てますが、事前に発覚して、首謀者6人に切腹、関係者50余人が遠島、謹慎に処せられます。しかし、脱走者が斉興の弟で福岡藩主の黒田斉溥に訴え、斉溥が老中の阿部正弘に善後策を一任します。阿部正弘は、もともと斉彬に期待する一人でしたから、幕府の名において、斉興に隠居を勧告し、1851年(嘉永4年)に斉彬の藩主就任が実現し、後継争いが決着します。斉彬は、家中の後継争いの再燃を避けるために、自らの後継に久光の子である忠義を指名して騒動の火種を排除したのは賢明な措置でした。

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