天璋院が生きた時代

〜後期 1868年(慶応4年)5月から
1883年(明治16年)11月までの主な出来事〜

政治経済

戊辰戦争(1868年)

幕府の大政奉還を受けて、朝廷(明治政府)では、王政復古の大号令を発します。大政奉還で幕府が消滅したとはいえ、旧幕府の家臣団は存在しており、将軍の辞官納地決定に不満を抱く者も多くいました。そこで、明治新政府は彼らを巧みに挑発し、旧幕臣と戦う事になります。この新政府軍と旧幕府軍との争いを戊辰戦争といいます。戊辰戦争は、京都の鳥羽、伏見の戦いに始まり、東京の上野戦争、長岡の戦い、会津戦争、函館、五稜郭戦争と戦われましたが、新政府軍の軍事力に旧幕府軍は圧倒され、平定されました。こうして戊辰戦争が幕を閉じ、明治新政府による本格的な政治が始まります。

版籍奉還(1869年)

明治新政府は、戊辰戦争に勝利した後、旧幕府領や幕府方の諸大名の領地を没収して直轄地としましたが、これ以外の地では依然として藩の支配が続いていました。そこで、こうした藩割拠体制を打破して中央集権体制を樹立するために、大久保利通らの画策で薩摩、長州、土佐、肥前の4藩主が領地と領民を天皇に奉還する上表を提出。これを受けて、明治新政府は、全ての藩に版籍の奉還を命じました。そして全ての領地、領民を新政府の支配下に置くようにし、旧大名を知藩事に任命して藩政にあたらせました。これが版籍奉還です。これにより中央集権の基礎を確保し、列強の植民地化を防ぐ事ができました。

廃藩置県(1871年)

版籍奉還により、藩主の家禄と藩の財政は分離できましたが、旧大名の実権が温存されたままでした。また、租税と軍事もこれまで通り各藩にまかされていたために、中央集権の成果が上がりませんでした。明治新政府は、中央集権を更に強力に推しすすめるために、薩摩、長州、土佐の3藩から御親兵をつのり中央政府の軍事力を強化整えた上で、一挙に各藩の廃藩置県を断行しました。周到な準備と各藩政のいきづまりから、ほとんど抵抗無く実施されました。これによって、知藩事は罷免されて、新たに中央政府から府知事、県令が任命され、赴任しました。この廃藩置県が、あとで欧米列強と肩を並べるようになるひとつの切っ掛けを作ることにもなりました。

地租改正(1873年)

明治新政府は、財政を安定させるために、これまで年貢という形で米で徴収されていた租税を現金に改める事にします。即ち、1873年に地租改正条例を公布し、地価を定め、土地の所有者に地券を発行しました。土地の地価を国がはかって、その3%を毎年、土地所有者が現金で納めるというものです。この地租改正では税率を軽減しなかったために、農民達によって大規模の一揆が起こされます。この結果新政府は、地租を2.5%に引き下げました。これを地租改正といいます。

国会開設の詔(1881年)

愛国公党を結成した板垣退助は、民撰議員設立の建白書を左院に提出します。この建白書は、新聞(日新真事誌)にも発表され、広く国民の知るところとなりました。これを機に、新聞紙上で盛んに国会開設について議論され、自由民権運動が広がりを見せます。このような動きに対して政府も立憲制に移行することを決意し、1881年に明治天皇から国会開設の詔が発せられ、10年後に国会を開く事を約束します。これに備えて、板垣退助の自由党や大隈重信の立憲改進党等の政党が生まれる事になります。

社会生活

四民平等(1869年〜1872年)

明治新政府は、版籍奉還によって藩主と藩士との封建的主従関係が無くなった事から、士農工商の身分制度を廃止し、国の施策である富国強兵策の一端を担わせようとします。そのため、1869年に華族、士族、卒族(後に士族と平民に分類)、平民間の通婚を許可し、えた、非人の称を廃止し、彼らの身分や職業も平民と同じとしました(身分開放令)。また、職業選択の自由が布告され、四民平等を実現しました。しかし、その後も社会的、経済的、身分的差別は、なかなかなくならず、昭和の時代まで存続する事になります。なを、政府は1772年に戸籍編成を行い、華族、士族、平民の3族による近代的戸籍(壬申戸籍)を作成しました。

文明開化(1869年〜1878年)

富国強兵を目指す明治新政府は、文化や国民生活の近代化を促進するため西洋の学問、近代思想、生活様式などありとあらゆる西洋式を取り入れようとします。こうした風潮を文明開化といいます。文明開化は、日本の思想、教育、宗教、生活等に多大な影響を及ぼします。例えば、福沢諭吉による西洋思想の紹介、フランスの学校制度にならった学区制の公布、鉛製活字の開発成功が新聞や雑誌の創刊をもたらし、太陽暦の採用による暦と時間の変更、洋装やこうもりがさ、西洋料理や牛鍋、パン、ビールなどが登場し衣食住にわたって国民生活は大きく変化します。当時の世相を現す言葉として{散切り頭をたたいて見れば、文明開化の音がする}とうたわれました。

薩摩藩(鹿児島)

明治6年の政変(1873年)

明治新政府は、幕末に締結された不平等条約が1872年に満期を迎えることからその予備交渉と海外視察のため岩倉遣外使節団を派遣する事になります。その副使を努めたのが後の初代内務卿となる大久保利通です。一方、岩倉使節団派遣中の留守政府首脳の一人が参議の西郷隆盛です。この頃、明治政府留守番組の間で大きな問題となっていたのが朝鮮問題でした。当時、日本と朝鮮は国交断絶状態にあり、日本は国交回復の呼びかけを何度かしていたのですが、そのたびに拒絶されていました。そこで西郷隆盛は、平和的に話し合ってそれでも無理なら武力で朝鮮に開国を迫ろうとします(征韓論)。しかし、海外視察を終えて帰国した大久保利通は、欧米列強の文明を目の当たりにし、日本の実力では立ちうちできない事を理由に、武力制圧に反対します(日本の出兵は欧米列強の派兵を招くと見たからです)。結果、征韓論に敗れた西郷隆盛以下5人の参議が職を辞任し、下野しました。これが明治6年の政変です。後に下野した西郷隆盛は、明治新政府の施策に不平をもつ士族の反乱に巻き込まれる事になります。

西南戦争(1877年)

明治6年の政変で下野した西郷隆盛は、鹿児島士族のために私学校を設立して若者達の教育にエネルギーを傾けていました。ところが、明治新政府の政策に不満を持つ不平士族が、各地で反乱(佐賀の乱、萩の乱、秋月の乱等)を起こすたびに、私学校の不平士族の士気は上がり、西郷の意図とは無関係に打倒政府の中心になっていきます。鹿児島でスパイ活動をしていた警察関係者の自供で西郷暗殺計画が明るみに出ると、これを切っ掛けに私学校党の出兵が決断され、これを受けて内務卿大久保利通も、賊徒追討令を発して政府軍と薩摩軍との全面戦争になります。両軍は、熊本城郊外の田原坂で壮絶な死闘を繰り広げて、薩摩軍は敗北します。この後、薩摩軍は敗走して鹿児島城山に立てこもりましたが、政府軍の総攻撃で、西郷は自刃し、ここに西南戦争は終結しました(不平士族の乱終結)。
 

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