天璋院が生きた時代

〜中期 1857年(安政4年)1月から
1868年(慶応4年)4月までの主な出来事〜

政治経済

一橋派と南紀派の将軍後継対立(1857年〜1858年)

13代将軍徳川家定は、病弱で世継ぎを設けられない状態にあったため、14代将軍をめぐって、将軍継嗣問題が勃発します。山積する外交問題を初めとして、問題解決の統治能力がある徳川慶喜を支持する一橋派とあくまでも現将軍との血統が近い徳川慶福を支持する南紀派の対立です。一橋派には、前水戸藩藩主の徳川斉昭、越前藩主の松平慶永、薩摩藩主島津斉彬等があり、南記派には彦根藩主の井伊直弼や譜代大名等がありました。一橋派の徳川慶喜擁立の動きに対して、徳川家定の生母本寿院を初めとする大奥が反発します。このような動きに対して、一橋派は朝廷をも動かして、慶喜の将軍擁立を画策します。これに危機感を強めた大老井伊直弼は、専制政治を実施して諸大名に対して、徳川慶福の次期将軍決定を発表し、一橋派の大目付土岐頼旨や勘定奉行川路聖謨らを左遷しました。なを、一橋派を攘夷派、南紀派を開国派と呼ぶ事もあります。

日米修好通商条約調印(1858年)

1858年3月、孝明天皇から条約調印不許可の勅諚が下されましたが、大老井伊直弼は、米国の海軍力を憂慮し、条約調印は急を要するものと考えていました。そこで直弼は、天皇の勅許が得られないまま、1858年6月に日米修好通商条約14か条に調印してしまいました。この条約は、

  1. 下田、箱館の他、横浜、長崎、新潟、神戸の開港
  2. 自由貿易
  3. 協定関税
  4. 領事裁判権

などが含まれていました。特に、「3」の協定関税については、日本の関税自主権が欠如していましたし、「4」 の領事裁判権に関しても治外法権や片務的最恵国待遇を認めるという不平等条約でした。その後、ほぼ同じ内容の条約が、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとも天皇の勅許がないまま調印されています。これらの条約を総称して安政の5カ国条約といいます。

桜田門外の変(1860年)

孝明天皇は、無勅許のまま日米修好通商条約の調印を行った幕府に対して、外交問題は諸大名の協力と勅許が必要であること、朝廷と幕府が協力して国難に対処する事などを要求します。しかし、大老井伊直弼は、朝廷が幕府の政治に口をはさむことは秩序に混乱をきたすとして、一橋派や攘夷派の大名や学者等反対の人々への弾圧に乗り出します。いわゆる安政の大獄です。安政の大獄では、攘夷派の公卿(近衛忠熙他)、大名(徳川斉昭他)、学者(吉田松陰、頼三樹三郎他)等が、隠居、謹慎、死罪等の厳しい処罰を受けています。この安政の大獄以降の井伊直弼のあまりのやり方に不満を持った人々のうち脱藩した浪士(元水戸藩士等)が、江戸城桜田門の近くで大老井伊直弼を暗殺してしまいます。これが桜田門外の変です。

坂下門外の変(1862年)

桜田門外の変以降、幕府の政策を担当する事となった老中安藤信正は、それま
での大老井伊直弼の専制路線を改め、安政の大獄で弾圧されていた一橋派の大名
松平慶永、山内豊信らの謹慎を解き朝廷や外様諸藩に対して融和的な政策に転換しました。安藤信正は、条約調印問題などで対立していた朝廷との関係修復のため公武合体政策の推進を図ります。即ち、公(朝廷)と武(幕府)の合体(孝明天皇の異母妹である和宮親子内親王と14代将軍家茂との婚儀)を進める事で幕藩体制の立直し(幕府の発言力の強化)を目論みます。ところが、公武合体政策に反発していた尊王攘夷派は、江戸城坂下御門内で、老中安藤信正を襲撃します。これが坂下門外の変です。安藤信正は一命を取りとめますが、この事件が原因で失脚します。この事件以降、天皇は幕府よりも上位にあると考える尊王攘夷運動が激化していきます。

池田屋事件(1864年)

激化する尊王攘夷運動は、討幕運動へと発展していきます。一方幕府は、尊王攘夷派の不逞浪士を摘発するために、京都での取り締まりを強化します。京都守護職松平容保の庇護の下、結成されたのが新撰組です。新撰組は、尊皇攘夷派の不逞浪士探索のため京都市中を奔走します。やがて、尊皇攘夷派の密会が池田屋で開かれているとの情報をつかみ、新撰組局長近藤勇以下が襲撃し、激闘の末9人を討ち取り、4人を捕縛します。これが池田屋事件です。

第二次長州征討(1866年)

池田屋事件に象徴されるように、幕府の尊皇攘夷派(倒幕派)に対する弾圧は、有力諸藩の反発を招きます。特に、薩摩藩、長州藩、土佐藩、肥前藩の尊皇攘夷派(倒幕派)浪士は、結びつきを強めていきます。特に、軍事力の近代化を推し進めていた薩摩藩と長州藩が薩長軍事同盟を結び(1866年)、武力倒幕の方向性を確認します。この密約を背景に、倒幕の不穏な動きを見せていた長州藩に対して、幕府は第二次長州征討を諸藩に命じます。しかし、密約に基づく薩摩藩の軍事援助と近代化武装した長州藩の前に、幕府、諸藩連合は敗退し、ここに幕府の弱体化は、決定的となります。

大政奉還(1867年)

土佐藩の後藤象二郎は、前土佐藩主山内容堂の名で、大政奉還の建白書を老中板倉勝静に提出します。この建白書は、坂本竜馬が作成した{船中八策}を基本にするもので、

  1. 政権を天皇に返すこと
  2. 議会を設置し、ここで議論をして政治を行う事
  3. 有能な人材を広く選び、登用する事
  4. 外交問題は議会で決定する事
  5. 憲法を制定する事
  6. 海軍の整備をする事
  7. 天皇の直属軍を設置する事
  8. 外国との貨幣の交換比率を確立する事の八項目です。

これらの内容は、現代の政治にも通じる内容を含むものでした。これを受けた、第15代将軍徳川慶喜は、内外の情勢を熟慮し、諸藩の重臣を二条城に集めて大政奉還の決意を表明し、天皇に上奏しました。これをもって、約265年続いた江戸幕府に幕を閉じる事になります。
 

社会生活

開港の影響(1858年〜)

日米修好通商条約の調印(1858年)で、日本と外国との貿易が始まりました。開港された横浜のその後の影響を見ると、元々小さな漁村だった横浜は、開港に伴って、港が造成され、貿易運上所(税関の前進)が置かれ、外国人居住地には、イギリスのジァーディン・マセン商会、アメリカのウォルシュ・ホール社などの商社、また日本人居住地には幕府御用商人の三井らが店を構えて、生糸、お茶、砂糖、水産物等を商い、居留地貿易が始まることになり、商人達が続々と横浜に住み始めます。横浜の居留地は、当時珍しかった教会、ホテル、写真屋、レストラン、新聞社、ガス灯、テニスコート、洋風劇場、競馬場など、さながら外国に居るような、はなやかな港町に発展していきます。

一揆や打ちこわしの頻発(1865年〜1866年)

徳川慶喜が第15代将軍に就任した慶応年間(1865年〜)に入ると、全国的に世直し一揆や打ちこわし等が頻発するようになります。原因としては、数年来の米の不作に加えて、開国の影響による物価の高騰などが挙げられます。1866年には、摂津西宮での米の安売り要求が発端となって、大阪では1日だけで800件を超える豪商の見せや商人宅が打ち壊されました。これが関西各地に飛び火拡大して、武蔵国川崎宿の打ちこわしへの広がり、江戸市中から関東地方、さらには東北にまで拡大します。この年に起こった農民一揆、打ちこわしの総数は、全国で数百件に上ります。

ええじゃないかの乱舞(1867年)

米の値段が下落し始めた1867年に、三河で伊勢神宮の御札が降ってきた事から民衆が、{ええじゃないか、ええじゃないか}と連呼して狂喜乱舞したことが始まりで、江戸から京都までの東海道筋や京阪地区、四国に広まって行きます。{ええじゃないか}は、社会の情勢不安の中で生まれた大衆による騒乱ですが、民衆の世相不安を癒し、心の安寧を求める新興宗教の登場へと結びついていきます。この時代に登場した新教派としては、天理教、黒住教、金光教等の教派があり、新しい神道として社会に浸透していく事になります。

 

薩摩藩(鹿児島)

島津久光の藩政改革(1858年〜1861年)

1858年(安政5年)7月に、藩主島津斉彬が病死すると、斉彬の遺言に従って島津忠義が新藩主となります。新藩主の父である島津久光が藩政の実権を握る事になりますが、久光は、斉彬が推進していた諸産業の振興策を継承するとともに、藩の尊王攘夷派の集まりである誠忠組を登用します。この誠忠組には、西郷隆盛、大久保利通を初めとして後の明治維新を担う人材が数多く集まっていました。これらの人材登用とこれまで推進してきた藩の財政改革並びに軍制改革で雄藩としての基礎を築きます。

寺田屋事件(1862年)

島津久光は、藩内の改革が落ちついた1862年(文久2年)3月、公武合体を孝明天皇に進言するため千人の薩摩武士を率いて上洛します。ところが、この久光の上洛を倒幕のための挙兵と誤解した尊王攘夷派の志士達が倒幕の兵を挙げようと京都、大阪に続々と集結します。伏見の船宿である寺田屋に集まって挙兵の準備をしていた薩摩藩士、有馬新七、田中謙助ら尊攘派の面々に対し、久光の使者が暴挙とどまるよう説得しますが、説得を拒否したために、改革の妨げになるとして有馬新七らを切り倒します。これが、寺田屋事件です。当時、孝明天皇より、浪士鎮撫の勅命を受けていた島津久光の自藩勤王藩士を斬るという寺田屋事件は、孝明天皇を初め朝廷公家の久光への信頼を高める事になりました。

 

薩英戦争(1863年)

公武合体を推進する島津久光は、幕府に対して徳川慶喜の将軍補佐、松平慶永の大老就任、参勤交代の緩和、兵賦令等の実施を要請するために、勅使大原重徳とともに江戸に上ります(文久の改革)。その帰路、横浜郊外の生麦村にさしかかった薩摩藩の行列の前を観光のために来日していた英国人が横切ったために、この非礼に対し薩摩藩の供の者が、英国人に切りかかると言う事件(生麦事件、1862年8月)が発生します。事件後、英国は薩摩藩に対して、賠償金の支払いを要求しますが、薩摩藩がこれを無視したため、英国は鹿児島湾まで艦隊を派遣して薩摩藩と戦争状態になってしまいます。これが、薩英戦争です。結果は、薩摩藩が賠償金を支払って終結しますが、これ以降薩摩藩は攘夷の限界を悟り、倒幕へと方向転換する事になります。

薩長同盟(1866年)

薩摩藩は、8月18日の政変(1863年8月)、禁門の変(1864年7月)などで長州藩とは対立関係にありました。ところが、薩摩藩は薩英戦争で、長州藩は下関事件(1864年8月)で、攘夷の無謀さを悟り、両藩は開国に向かって歩き始める事になります。ところで、この頃薩摩藩の保護のもと、長崎で亀山社中という海運業を営んでいた坂本竜馬の仲介で、当時幕府との戦争に備えて、武器を欲しがっていた長州藩の代表木戸孝允と、倒幕を模索していた薩摩藩の代表小松帯刀、西郷隆盛の4人が京都で密会し、武力倒幕の秘密軍事同盟を締結します。これが、薩長同盟です(慶応2年4月)。この同盟以降、倒幕勢力が勢いを増し、幕府の第二次長州征討の中止、大政奉還へと歴史は流れていきます。

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